罪と罰

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ドストエフスキー罪と罰をやっていきます。

罪と罰というと、つっちゃんという小学校の同級生が遊んでいた

ブラウザゲームの名前でもある。

確かこれだったと思う。

 

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つっちゃんはこのゲームの上位プレイヤーだったようで

ゲーム内容が小学生には難しいという事もあり

周囲から尊敬の眼差しで見られていた。

更に聡明イケメン高身長というチートキャラだったつっちゃんとは

当時から住む世界が違うという事はなんとなく察しており

さして交流もなく、当時流行っていたデュエマをやりにいく為

他の友達と一緒に1回だけつっちゃん家に遊びに行ったぐらい。

なので中学が別々になってからは全く交流も無かったんですが

ある日彼女の友達の彼氏がつっちゃんであるという事を聞き

さぞイケメンになってるんだろうなと思っていたら

その彼女がつっちゃんに飽きて他の男とセックスしたという話を聞き及び

何故か僕はその時異様な興奮を覚えたのです。

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つまり僕のNTR嗜好はつっちゃんに起因するかもしれないという話。

それはともかく罪と罰といえば、椎名林檎の初期の名曲の名前でもあり

この名前だけ聞いた事あるって人も多いのではないでしょうか。

それだけ名書という事だし、ずいぶん前から気になっていた作品です。

僕のamazon欲しい物リストに2009年から眠っていたほど。

 

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ドストエフスキーという作家の名前も有名ですね。

いわゆるロシア文学にあたる訳ですが

僕が読んだ事のあるロシア文学は、ペンギンの憂鬱という本のみ。

ペンギンの憂鬱はウクライナが舞台の作品らしいんですが

僕らがイメージするロシアの殺伐さと退廃的な雰囲気があって結構好きな作品です。


罪と罰が10年以上ほしい物リストに眠っていた訳としては

このリストに入れている版が上・中・下巻に分かれており

今回僕が読んだ版も上・下巻に分かれているという事で

ずいぶんな長編であり、難しそうというイメージもあって

中々手をつける気にはなれずにいたという、ありがちな理由。

なぜ今頃になって読む気になったかというと

これも中田敦彦Youtube大学で観たからなんですね。


なので、大体のあらすじは分かった上で読んだ訳なんですが・・

簡潔に結論を述べると、あらすじが分かった上で読んでも面白かった。

今までのベスト同率3位もしくは2位に入るぐらいです。

去年読んだ本では間違いなく一番面白かった。

読みにくそうなイメージがありますが、実際はセリフが多いので

結構スラスラ読める、個人的にはペストの方が読みにくかった。

テーマは重いけど、けっして読むのが難しい本ではないと思います。

ただ、Youtube大学の方でも語られていた通り、コロコロ登場人物の呼び名が変わる所は分かり難い。

なんとなく今までの呼び名で、こいつの事なんだろうなというキャラもいれば

全然呼び名が違うので、誰の事をいっているのかサッパリ分からんっていうキャラもいる。

例えば、今までラズミーヒンと呼ばれていたキャラが

ドミートリイ・プロコーフィチですと名乗ったりするので

偽名を名乗ってるのか?と思ったりしてしまう。

どうもロシアは呼び方によって関係性が分かる為、この部分を統一してしまうと

原文の良さが無くなってしまうという事で、ロシア文学は概ねこんな調子らしい。

まぁこれも読んでる内に慣れてきます。

あとYoutube大学で語られていたのは、主人公とポルフィーリーの対決が

キラとLを彷彿とさせ、デスノートっぽい話であるという事。

確かにそんな要素もあるけど、僕が登場人物から受けた印象はちと違った。

という訳で、登場人物の何人かを作中に登場する呼び名と

僕が感じたイメージ付で紹介したいと思います。

 


ラスコーリニコフ
■ロジオン・ロマーヌイチ
■ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ
■ロージャ
■ロジオン

 

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ペテルブルグに住む主人公、貧困ゆえに大学を中退する事になってしまったが

周囲からは総じて聡明であると認められていて、自らもそれを信じている。

自尊心が強く、すぐにイライラしたり、周囲の人間を見下す傲慢的な人物として描かれますが

自分の家族を愛しており、なけなしの金を劣悪な環境下にいる他人に渡したり

見知らぬ酔いつぶれた娘を、安全に家まで送る為に馬車代を負担するなど

善人としての心も持ち合わせています。

貧困の為、そして自らの信念の元に2人の女性を殺害する。

運よく目撃もされずに、証拠もない完全犯罪を成し遂げますが

その後に罪の意識にかられ、幻覚を見る、熱病を発症する

度々意識を失うなど、精神・体力共に追い詰められていきます。

それでも人を殺したのが悪いのではなく

それに耐える事の出来なかった自分の精神力に問題があると考え

改心する事も出来ずに、周りに敵を作って自分の殻に閉じこもってしまう。

貧乏という境遇も似てるし、尖った幕末志士の坂本さん・・って感じを受けました。

 


■ドゥーニャ
■アヴドーチヤ・ロマーノヴナ
ドゥーネチカ

 

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ラスコーリニコフの妹、絶世の美女との事。

兄と同じく聡明で家族思いで芯の強い女性という感じ。

弁護士のルージンという男と結婚する事になるが

ラスコーリニコフからは家族を貧困から救う為に

自分を犠牲にしていると思われ、反対される。

ルージンが仕事の事情でペテルブルグに赴くのに伴い

母と共にペテルブルグへと移ります。

ちょっとこれはイメージキャラが思い浮かばなかったので

とりあえずクリミアさんの画像を載せました。

 


■プリヘーリヤ・アレクサンドロブナ
■プリヘーリヤ・ラスコーリニコワ

 

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ラスコーリニコフとドゥーニャの母親。

ラスコーリニコフとドゥーニャを心から愛している良き母親で

苦心して金を工面し、ラスコーリニコフに渡しています。

ドゥーニャと共にペテルブルグに移り、ラスコーリニコフに再会しますが

既にラスコーリニコフは犯行に及んでいた為

母と妹の存在が彼の罪悪感を増幅させ、苛ませる要因となります。

母を訪ねて三千里の母親をイメージキャラにあてました(観たことないけど)

 


■ラズミーヒン
■ドミートリイ・プロコーフィチ

 

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ラスコーリニコフの大学時代からの唯一の友人。

作中で語られてる通りお人よしで、正義感が強く熱血漢という感じ。

ラスコーリニコフに働き口を見つけてやったり

熱病で倒れたラスコーリニコフを度々見舞って色々と世話を焼きます。

更には慣れていないペテルブルグへやってきた

ラスコーリニコフ一家の面倒まで見る。

一言でいえばいいやつ。

なんとなく氷菓福部里志がイメージされた。

 

 

ポルフィーリー
ポルフィーリー・ペトローヴィチ

 

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ラズミーヒンの親戚の予審判事。

物的証拠がない犯行を、心理的推理とラスコーリニコフの行動を分析する事で

犯人がラスコーリニコフであると断定し、明言はしないものの

遠回しにラスコーリニコフを追い詰めていきます。

ラスコーリニコフもそれに気づいており

敵対心をもってポルフィーリーの追求に挑みますが

ポルフィーリーがラスコーリニコフよりも一枚上手であるという印象。

中年で小太り、飄々とした態度、時おりフランス語を使う点などから

ポアロシリーズのエルキュール・ポアロが強くイメージされました。

 

 

マルメラードフ
セミョーン・ザハールイチ

 

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ラスコーリニコフが居酒屋で出合う退職した役人。

家庭を築いている物の、失業の為に酒に手を出し

今では酒に全ての金をつぎ込む為、家族全員が貧相な生活を強いられている。

家族の生活の為に、娘は娼婦にまでなっていて

その事に対し罪悪感に苛まれている物の

その上で娘に飲み代をせがむというどうしようもないダメ人間。

イメージキャラは浮かばなかったのでタロンの画像にしました。

 


■ソーニャ
■ソフィヤ・セミョーノヴナ
■ソーネチカ
■ソーネチカ・マルメラードワ

 

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マルメラードフの娘で娼婦として働いている。

熱心なキリスト教徒であり、気が弱くて常にビクビクしている。

家族の為に自らを犠牲にして生きており

罪人のラスコーリニコフに、一緒に罪を背負いましょうと自首を促し

ラスコーリニコフが実際に自首し、シベリアへ流刑になった際には

彼との面会のため、自身もシベリアまで移住するという天使のような娘。

最終的にラスコーリニコフはソーニャに影響されて改心します。

娼婦として生きているのに、誰よりも心が清らかであるという

相反する二面性が印象的なキャラクター。

キャラは全然違うけど、名前が一緒なのでソーニャちゃんをイメージに。

 


■ルージン
■ピョートル・ペトローヴィチ・ルージン
■ピョートル・ペトローヴィチ

 

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ドゥーニャの婚約相手で弁護士。

ラスコーリニコフから一方的に敵視されますが

実際、金の力でドゥーニャを支配しようとしていたり

ソーニャに窃盗の容疑を被せ、ひいてはラスコーリニコフも陥れようとするゲス野郎でした。

イメージキャラは浮かばなかったのでインゴーに。

 


■スヴィドリガイロフ
■アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフ

 

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ドゥーニャが家庭教師として働いていた家の主人で

金持ちの婦人と結婚し死別した為、自身も余る程の金を持ち合わせています。

しかし頭がチンコで出来ている為、女関係にだらしなく

その金を使って方々で遊ぶという堕落した生活を過ごしている。

金があるのに安宿や下級層向けの飯を好む変人。

ドゥーニャに強く惹かれており、なんとか自分の物にしようと画策します。

そして、盗み聞きでラスコーリニコフの犯行を知り、それをネタにドゥーニャに迫る。

しかし、どうあってもドゥーニャが自分の事を愛さないと知り

アメリカへ行くと言い残して自殺します。

その最期も含め、作中でも印象的な人物の1人。

これはドストエフスキーその人が一番近いのではないかと思われた。

 


■アリョーナ・イワーノヴナ

 

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いわゆる質屋のような事をしている老婆。

品物の価値に対してほんの僅かな金額しか貸さない。

期限を過ぎたらすぐに品物を流してしまう。

意地悪く強欲な悪人であると散々な評価をされています。

稼いだ金についてはほとんど教会に寄付をしているんですが

それは自分がきちんと弔ってもらう為、また天国行きを

約束させるためといわれており、自分の事しか頭にないような人物という事で

ラスコーリニコフはこの老婆を殺害して

その金をもっと有意義な事に使うという計画を立てます。

次に紹介するリザヴェータとセットで

ムジュラのアンジュのおばあさんがイメージされた。

 


■リザヴェータ
■リザヴェータ・イワーノヴナ

 

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アリョーナ・イワーノヴナの腹違いの妹。

ソーニャの友人だったようで、ソーニャのように気が弱く

アリョーナ・イワーノヴナにこき使われています。

妹といっても、腹違いという事からか年は35という事で

アリョーナ・イワーノヴナとは年が離れているように思われる。

ラスコーリニコフはリザヴェータが不在になる日を知り

その日を狙い、アリョーナ・イワーノヴナを殺害するんですが

その後にリザヴェータが家に戻ってきてしまった為

ラスコーリニコフはとっさにこのリザヴェータも殺害してしまう。

こちらはアンジュのイメージで。

 

 

という事で、タイトルの罪と罰

ラスコーリニコフの犯行とその後に訪れる苦悩を表しています。

罪と罰には色々な小説の要素が含まれているといわれており

ラスコーリニコフポルフィーリーの対峙は推理小説的でもある。

この小説のように、犯人側の視点をまず描く推理小説倒叙ミステリーというらしく

刑事コロンボ(テーマ曲しか知らない)や

刑事コロンボのオマージュといわれる古畑任三郎(ちゃんと見たことない)も

この倒叙ミステリーにあたります。

また、刑事コロンボの主人公であるコロンボポルフィーリーがモデルになっているそう。

 


 


当時の社会情勢、人々の暮らしを風刺しているともいわれていたり

最終盤のラスコーリニコフとソーニャの描写は恋愛小説的でもある。

印象的な登場人物が多く、またその感情が細かく描写されており

台詞も多いので、僕は戯曲のような印象も受けました。

僕が好きなサークルである模造クリスタルは

明らかに文学に強く影響を受けている節があるんだけど

コナミルク通信という漫画で「あたしはしらみだ・・・!」というセリフが出てくる。

 

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この小説にもしらみという単語が頻出するので

もしかしたら罪と罰に影響を受けたものかも・・・と思いました。

かの手塚治虫氏も罪と罰に影響を受けたそうで、漫画も描いている。

という訳で、後のフィクション作品にも多大な影響を与えている作品のようです。


そしてこの罪と罰は、これまた超有名作である戦争と平和

同じ雑誌に、同じ時期に連載を始めたという逸話が

戦争と平和も読んでみたい本ではありますが、大作すぎて全然手をつける気になれない。

舞台となっているペテルブルグは実際にドストエフスキーが住んでいた街とのこと。

また、ここにあるサンテクトペテルブルク大学は

モスクワ大学と並ぶ、ロシアの名門大学であるという事で

主人公のラスコーリニコフもこのサンテクトペテルブルク大学に

通っていたと思われる。

最終的に犯行を自白したラスコーリニコフ

よくネタで言われるシベリア送りになるわけですが

ドストエフスキー本人も、この小説を執筆するまでに

政治犯としてシベリアに留置されていたらしい。

更に兄が莫大な借金を残して亡くなったために

殺人的なスケジュールで執筆をこなすものの

ギャンブル狂だったドストエフスキーはギャンブルでその金も溶かすなど

散々な状況下で書かれた作品のようです。

マルメラードフの「貧は罪ならず」の台詞も

自身の経験から発せられているのかもしれません・・。

普通に執筆していたら、スケジュールに間に合わないために

この罪と罰ドストエフスキーがストーリーを口頭で話して

それを速記で書かせたという逸話も残っている。

そんな状況でこの作品を作ったなんてにわかには信じられませんが・・。

 

というか、白鯨・ペスト・罪と罰

最近読んだ海外小説にはどれもキリスト教が深く関与してくる。

今まで読んだ海外小説にはそういった要素はあんまりなかった気がするんだけど

やはりそれだけ海外ではその価値観が根付いているという事なんだなぁ

作中でラスコーリニコフはソーニャにラザロの復活の場面を

朗読させるのですが、このラザロの復活については

つい最近も別の作品か何かで目にした気がする。

白鯨でも取り上げてたんだっけな・・ちょっと思い出せませんが。

聖書については漠然とした知識しかないので

海外作品を読む上での基礎知識として読んでみるのもいいかもしれない。


あの村上春樹氏は、ドストエフスキー作品について

ドストエフスキーはこの世に様々な地獄が存在する事を示したと評しているそうですが

この罪と罰でも様々な地獄が描かれています。

しかし、その地獄を経過したラストは希望に溢れた物になっている。

まさに名作だったな・・って感じですね。

罪と罰が面白かったので、次はこれまた長編で

手をつけづらいと思っていた、カラマーゾフの兄弟を読もうかなと思います。

印象に残った場面を紹介しようのコーナー

 

 

こんなことだろうと思っていたんだ!

これがいちばんいまわしいことだ!

よくこういううかつな、なんでもない小さなことから

計画がすっかりくずれてしまうものだ!

それにしても、この帽子は目立ちすぎだ......

おかしいから、目立つんだ......

このぼろ服にはぜったいに学帽でなきゃいけなかったんだ。

せんべいみたいにつぶれていたってかまやしない。

へまをやったものだ。

こんな帽子は誰もかぶってやしない。

1キロ先からでも目について、おぼえられてしまう......

まずいことに、あとで思い出されると、それが証拠になる。

とにかく、できるだけ目につかないようにすることだ......

小さなこと、小さなことが大切なのだ!......

その小さなことが、いつもすべてをだめにしてしまうのだ......

 

 

「なあ、あなた」と、彼は妙にもったいぶった調子できりだした。

「貧は罪ならず、これは真理ですよ。

飲んだくれることが、善行じゃないくらいのことは、わたしだって知ってますよ。

そんなことはきまりきったことだ。

しかし、貧乏もどん底になると、いいですか、このどん底というやつは―

罪悪ですよ。

貧乏程度のうちならまだ持って生れた美しい感情を保っていられますが

どん底におちたらもうどんな人でもぜったいにだめです。

どん底におちると、棒で追われるなんてものじゃありません

箒で人間社会から掃きだされてしまうんですよ。」

 

 

ところがいまだに前夫を思い出しては

泣いたりして、前夫をだしにしてわたしを責めるのさ

だがわたしにはそれがうれしいんだよ、うれしいんだよ

だってせめて思い出の中ででも

家内は幸福だった自分の姿を見ているわけですからねえ......

 

 

ロージャ、妹のドゥーニャを愛しなさい。

あの娘がおまえを愛していると同じように、あの娘を愛してあげなさい

そしてあの娘ははかり知れぬほど強く

わが身よりもおまえを愛していることを、知ってあげなさい。

あの娘は天使です。

そしておまえは、ロージャ、おまえはわたしたちのすべてです―

わたしたちの望みと頼みのすべてです。

おまえだけが幸福になってくれたら、わたしたちも幸福なのです。

ロージャ、いままでどおり神さまにお祈りしていますか

造物主と救世主の慈悲を信じていますか?

いまどきはやりの無信仰におまえがとりつかれていはしないかと

わたしはひそかに案じています。

もしそうでしたら、わたしはおまえのために祈ります。


かわいいロージャ、おまえが幼い子供だった頃

お父さんが生きていらした時分のことをおぼえていますか。

おまえはよくわたしの膝の上でまわらぬ舌で祈りを唱えたものでした

そしてあの頃はわたしたちはみんなとっても幸福でした!

さようなら、いやそれよりは、また会う日までといいましょう。

おまえをつよくつよく抱きしめ、かぎりない接吻を送ります。

死ぬまでおまえの変わらぬ母

プリヘーリヤ・ラスコーリニコワ

 

 

おれの妹なら、尊敬もしていないし、永久に自分を結びつけて

自分の精神と道徳観をけがすくらいなら

いっそ植民地の農園に奴隷となって雇われに行くか

あるいはバルト海沿岸地方のドイツ人の下女になるだろう!

また、ルージン氏が純金か高価なダイヤモンドに埋まっているような

人間なら、妹はルージン氏の合法的なかこい者になることを承知しまい!

それならいまどうして承知しているのか?

どこにどんなわけがあるのか?

どこにこの謎のかぎがあるのか?

真相ははっきりしている。

 

自分のために、自分の安楽のために

自分を死から救うためにさえ、自分を売りはしないが

他人のためなら現にこのように売るのだ!

愛する者のために、尊敬する人間のために、売る!

要するに、これが真相なのだ。

兄のために、母のために、売る!すべてを売る!

おお、この殺し文句のために、時によると

われわれは道徳心をおしつぶしてしまうのだ。

そして自由も、安らぎも、良心までも

何もかも古物市へ運び去ってしまう。

 

生活なんかどうにでもなれ!

愛する人が幸福になれさえすれば!

そのうえ、勝手な詭弁を考えだし

ジェスイット教徒の教えを研究して

こうでなければならないのだ、崇高な目的のためならば

これでいいのだと、自分に納得させて

ひとときの安らぎを得ようとする。

われわれがこんな人間なのだ。

そして何もかもが白日のようにはっきりしている。

 

この芝居では、ほかならぬロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフが登場し

しかも主役であることも、はっきりしている。

なにいいさ、彼の幸福が築き上げられるのだ。

彼を大学に学ばせ、事務所で主人の片腕にしてやり

彼の生涯を保証してやることができる

もしかしたら、彼はのちに金持になり、人に尊敬されるようなりっぱな人になり

しかも名誉ある人間として生涯をとじるかもしれぬ!

だが母は?


でもいまはロージャが第一だ。

かけがえのない長男のロージャさえよくなってくれたら!

この大切な長男のためならば、こんなかわいい娘でもどうして犠牲にせずにいられよう!

おお、なんというやさしい、しかしまちがった心だろう!

なんということだ、これではわれわれはソーネチカの運命も否定できないではないか!

ソーネチカ、ソーネチカ・マルメラードワ、世界あるかぎり、永遠のソーネチカ!

犠牲というものを、犠牲というものをあんた方二人はよくよくはかってみましたか?

どうです?堪えられますか?

とくになりますか?分別にかないますか?

ドゥーネチカ、おまえはソーネチカの運命が

ルージン氏といっしょになるおまえの運命にくらべて

すこしもいやしいものでないことを、知っているのかね?

 

 

ドゥーネチカ、このきれいというやつは

高くつくよ、ひどく高くつくんだよ!〉

あとで力にあまるようなときがきたらどうする?

 後悔してもおそいよ。

どれだけ悲しみ、なげき、呪い、人にかくれて涙を流さなければならぬことか

だっておまえはマルファ・ペトローヴナのような女じゃないもの!

そうなったら母さんはどうなるだろう?

もう今から心配で、胸を痛めているというのに

何もかもがはっきりわかるときがきたらいったいどうなるだろう?

ところで、おれは?......

本当のところおれについておまえは何を考えたのだ?

おれはおまえの犠牲なんかいらないよ、ドゥーネチカ

いやですよ、母さん!

おれが生きている間は、そんなことはさせぬ、させないよ、させるものか!ことわる!

 

 

最初、―

といっても、もうずいぶんまえのことだが―

彼はひとつの問題に興味をもっていた。

どうしてほとんどすべての犯罪があんなにたやすく

さぐり出されてしまうのか?

どうしてほとんどすべての犯罪者の足跡が

あんなにはっきりあらわれるのか?

彼はすこしずついろいろなおもしろい結論を出していったが

彼の見解によれば、最大の原因は犯罪をかくすことが

物質的に不可能であるということよりは

むしろ犯罪者自身にあるというのである。


犯罪者自身が、これはほとんどの犯罪者にいえることだが

犯行の瞬間には意志と理性がまひしたような状態になって

それどころか、かえって子供のような異常な無思慮におちいるからだ。

しかもそれが理性と細心の注意がもっとも必要な瞬間なのである。

彼の確実な結論によれば、この理性のくもりと意志の衰えは

病気のように人間をとらえ、しだいに成長して

犯罪遂行のまぎわにその極度に達する

そしてそのままの状態が犯行の瞬間まで

人によっては更にその後しばらく継続する

それから病気がなおるように、その状態もすぎ去る。

そこで1つの問題が生れる。

病気が犯罪自体を生み出すのか

それとも犯罪自体が、その特殊な性質上

常に病気に類した何ものかを伴うのか?―

彼はまだこの問題の解決はできそうもなかった。

 

 

彼は外套のボタンをはずして、斧を輪からはずしたが

まだとり出さないで、右手で外套の下におさえていた。

手はおそろしいほど力がなかった。

1秒ごとに、ますます手の感覚がまひして

重くこわばってゆくのが、自分でもはっきりわかった。

斧が手からすべりおちるのではあるまいか

そう思うと......不意に彼ははげしいめまいのようなものを感じた。

「まあ、なんだってこんなにゆわえつけたのさ!」と

老婆はじれったそうに叫ぶと、わずかに彼のほうへ身をうごかした。

もう一刻の猶予もならなかった。


彼は斧をとり出すと、両手で振りかざし

辛うじて意識をたもちながら、ほとんど力もいれず

機械的に、斧の背を老婆の頭に振り下ろした。

そのとき力というものがまるでなかったようだったが

一度斧を振り下ろすと、急に彼の体内に力が生れた。

 

 

ラスコーリニコフはソファから立ち上がった。

ラズミーヒンの部屋へのぼってくるときは、彼は相手と

顔をつきあわせなければならぬことになるのだとは、考えてもなかった。

そしていまといういま、とっさに、彼は世界中の誰とも

ぜったいに顔をあわせたくない気分になっていることを、はっきりさとった。

身体中の血がかっと熱くなった。

彼はラズミーヒンの閾をまたいだというだけで

自分に対する憎悪のためにほとんど息がつまりそうになった。

 

 

「つまり、ぼくはもうきみたちには死ぬほどあきあきしたから

1人になりたい、ということだよ」

 

 

<<さて、行こうか、行くまいか>>

ラスコーリニコフは十字路のまん中に立ちどまって

誰かから最後の一言を待つようにあたりを見まわしながら、考えた。

しかしどこからも何も聞こえてこなかった。

あたりは荒涼としてもの音ひとつなく、彼が踏んできた石畳のように死んでいた。

彼には、彼だけにとっては死んでいた......

 

 

彼はしばらく、自分の娘がわからないように

うごかぬ目でぼんやり見つめていた。

さもあろう、こんな服装の娘を、彼は一度も見たことがなかったのである。

と不意に、彼はそれが自分の娘であることがわかった。

さげすまれ、ふみにじられ、おめかしして

そんな自分を恥じながら、死の床の父と

永別の番がくるのをつつましく待っている娘。

はかり知れぬ苦悩が彼の顔にあらわれた。

「ソーニャ!娘!許してくれ!」と

叫んで、彼は娘のほうへ手をさしのべようとした、が

支えを失って、ソファから前のめりにどさッと床へおちた。

急いで抱きおこし、ソファへねかせたが、もう虫の息だった。

ソーニャはあッとかすかに叫んで、かけより

父を抱きしめると、そのまま意識がうすれてしまった。

彼はソーニャの腕の中で息をひきとった。

 

 

われを忘れた歓喜の叫びがラスコーリニコフをむかえた。

二人は彼にとびついた。

しかし彼は呆然と突っ立っていた。

堪えがたい突然の意識が雷のように彼を打ったのである。

彼は手もだらりと垂れたままで、二人を抱擁することができなかった。

母と妹は彼をしっかり抱きしめ、接吻し、笑い、泣いた......

彼は一歩まえへふみ出すと、ぐらッとよろめいて

のめるように床へ倒れ、そのまま気を失ってしまった。

 

 

しかし、この蒼白い陰気な顔も、母と妹が入ってきたとき

一瞬さっと光がさしたように見えたが

それも顔の表情に、それまでの重苦しい放心のかわりに

かえってますます濃くなったような苦悩のかげを加えただけだった。

光はじきにうすれたが、苦悩はそのままのこった。

そしてかけだし医師の若い情熱のすべてをかたむけて

自分の患者を観察し研究していたゾシーモフは

肉親が来たことで彼の表情に喜びのかわりに

もはやさけられぬ1、2時間の拷問をたえようという

重苦しいかくされた決意を見てとって、ぞっとした。

 

 

「もうろうとして?でもきみはすっかりおぼえてるじゃないか」と

ラズミーヒンが口を入れた。

「それはたしかだ」と何か特に注意深く、ラスコーリニコフはそれに答えた。

「ほんの些細なことまで、すっかりおぼえている

ところが、どうしてあんなことをしたか、どうしてそこへ行ったか

どうしてあんなことを言ったのか?

ということになると、自分でもよくわからないんだ」

「それはもう自明の現象ですよ」とゾシーモフが口を入れた。

「あることの実行はときとして手なれたもので

巧妙すぎるほどだが、行為の支配、つまり行為の基礎がみだれていて

さまざまな病的な印象に左右される。

まあ夢のような状態ですな」

<<ふん、やつはおれをほとんど気ちがいあつかいにしているが

そのほうがかえって好都合かもしれんぞ>>と

ラスコーリニコフは考えた。


「でもそれは、健康な人だって、やはりあるかもしれませんわ」と

不安そうにゾシーモフを見ながら、ドゥーネチカが言った。

「お説のとおりかもしれません」とゾシーモフは答えた。

「その意味では、たしかにわたしたちはみな

しかもひじょうにしばしば、ほとんど狂人のようなものです。

ただわずかのちがいは、<<病人>>のほうが

われわれよりもいくぶん錯乱の度がひどいということだけです

だからここに境界線をひかなければならないわけです。

調和のとれた人間なんて、ほとんどいないというのは、たしかです。

何万人に、いやもしかしたら何十万人に一人、いるかいないかですが

それだってやはり完全というわけにはいかんでしょう......」

 

 

「もういいよ、お母さん」と彼は母の顔を見もしないで

その手だけにぎりながら、ばつわるそうに言った。

「話はゆっくりしましょうよ!」

そう言うと、彼は急にどぎまぎして、真っ蒼になった。

またしてもさっきの恐ろしい触感が

死のような冷たさで彼の心を通りぬけたのだ。

またしても彼はおそろしいほどはっきりさとったのだ

いま彼がおそろしい嘘を言ったことを

そしてもういまとなっては

ゆっくり話をする機会などは永久に来ないばかりか

もうこれ以上どんなことも

誰ともぜったいに語りあうことができないことを。

この苦しい想念の衝撃があまりに強烈だったので

彼は一瞬、ほとんど意識を失いかけて

ふらふらと立ちあがると、誰にも目を向けずに、部屋を出て行こうとした。

 

 

「主よ、死者には安らぎを、生者にはさらに生をあたえたまえ!

そうじゃありませんか!そうじゃありませんか!そうですね?」

 

 

「いったいどうして椅子をこわすんですみなさん

国庫の損失になるじゃありませんか!」と

ポルフィーリィ・ペトローヴィチはおもしろがって

ゴーゴリの<<検索官>>の中の台詞を叫んだ。

 

 

ぼくはこう思うんです、もしケプラーニュートンの発見が

いろんな事情がつみかさなったために

その発見をさまたげたり、あるいは障害としてそのまえに立ちふさがったりした

1人、あるいは十人、あるいは百人

あるいはそれ以上の人々の生命を犠牲にする以外

人類のまえに明らかにされるいかなる方法もなかったとしたら

ニュートンはその権利......

自分の発見を全人類に知らせるために

その十人ないし百人を排除する......権利をもっていたろうし

そうするのが義務でさえあったでしょう。

だからといって、ニュートンが誰であろうと手当たりしだいに殺したり

毎日市場でかっぱらいをしたりする権利をもっていたということにはなりません。

さらにぼくはあの論文で、論旨をこんなふうに発展させたことをおぼえています......


つまり、例えば、法律の制定者や人類の組織者であっても

つまり古代の偉人からリキュルゴス、ソロン

マホメット、ナポレオン等々にいたるまで

新しい法律を定めて、そのこと自体によって

社会が神聖なものとあがめ、父祖代々伝えられてきた古い法律を破棄し

しかも血が彼らのしごとを助けることができると見れば

(往々にして古い法律のためにまったく罪のない血が、勇敢に流されたものですが)

むろん流血をも辞さなかった、という一事をもってしても、1人のこらず犯罪者だった。

これらの人類の恩人や組織者の大部分が

特におそるべき虐殺者だったということは、むしろおどろくべきことです。

要するに、ぼくの結論は、偉人はもとより

ほんのわずかでも人並みを出ている人々はみな

つまりほんのちょっぴりでも何か新しいことを言う能力のある者はみな

そうした生れつきによって、程度の差はあるにせよ

ぜったいに犯罪者たることをまぬがれないのだ、ということです。


そうでなければ人並みを出ることはむずかしいでしょうし

人並みの中にとどまることは、むろん、賛成できない

これもまた彼らのもって生れた天分のせいですが

ぼくに言わせれば、賛成しないのが義務にすらなっているのです。

要するに、ここまでのところは、おわかりでしょうが

特に目新しい思想はひとつもありません。

これはもう何度となく書かれ、そして読まれてきたことです。

人々を凡人と非凡人に分けるといったことについては

それがいささか暴論であるというあなたの意見はみとめますが

しかしぼくはべつに正確な数字を主張しているわけではありません。


ぼくはただ自分の根本思想を信じているだけです。

それはつまり、人間は自然の法則によって二つの層に大別されるということです。

つまり低い層(凡人)と、これは自分と同じような

子供を生むことだけをしごとにしているいわば材料であり

それから本来の人間、つまり自分の環境の中で

新しい言葉を発言する天分か才能をもっている人々です。

 

 

「ところがそうじゃないんだ!こういうなんでもないことに

頭のまわる連中はいちばんひっかかりやすいんだよ。

頭のいい人間ほど、自分がつまらないことでひっかるとは、思わないわけだ。

だからもっともずるがしこいやつをひっかけるには

もっともつまらないことがいいんだよ。」

 

 

<<おお、おれはいまあの婆ぁが死ぬほど憎い!

もしあいつが生きかえったら、きっともう1度殺してやるにちがいない!

リザヴェータはかわいそうなことをした!

なんだってあんなところへもどって来たのだ!......

しかし、不思議だ、どうしておれは彼女のことをほとんど考えないのだろう

まるで殺さなかったみたいに?

......リザヴェータ!ソーニャ!

かわいそうな女たち、やさしい目をした、やさしい女たち......

かれんな女たち!.......

あのひとたちはどうして泣かないのだろう?

どうして苦しまないのだろう?......

すべてをあたえて......やさしくしずかに見ている......

ソーニャ、ソーニャ!従順なソーニャ!......>>

 

 

「わたしがあの手紙にあなたの人柄や行為についてまで書いたのは

わたしがあなたをどう見たか、どんな印象をうけたかを

ぜひ知らせてほしいというあなたの妹さんとお母さんのご依頼を果したまでです。

わたしの手紙であなたが指摘された点については

1行でもまちがいがあったら見つけてもらいましょう

つまり、あなたが金を浪費しなかったか

たしかに気の毒な家庭にはちがいないが

あの家庭にけがれた人間はいなかったか、ということですがね?」


「ぼくにいわせれば、あなたなんか、もっている価値を全部あわせても

あなたが石を投げつけたあの不幸な娘の小指の先にも値しませんね」

 

 

「きみがとびだしてくるのは、知っていたんだよ」と彼は言った。

「母と妹のところへもどって、いっしょにいてやってくれ......

明日も......いつまでも。

ぼくは......来る、かもしれん......できたら。

じゃ、これで!」

そう言うと、握手ももとめないで、彼ははなれて行った。

「でも、どこへ行くんだ?何を言うんだ?いったいどうしたというんだ?

こんなことをしていいのか!......」

ラズミーヒンはすっかりうろたえて口走った。

ラスコーリニコフはもう一度立ちどまった。

「これが最後だ。

ぜったいに何も聞くな。

きみに答える何もない......

ぼくのところへ来るな。

ぼくのほうからここへ来るかもしれん......

ぼくを見捨てろ、だがあの二人は......

見捨てないでくれ。

ぼくの言うことがわかるかい?」

 

廊下は暗かった。

彼らはランプのそばに立っていた。

1分ほど黙って顔を見あっていた。

ラズミーヒンは生涯この瞬間を忘れなかった。

ぎらぎら燃えたひたむきなラスコーリニコフの視線が

刻一刻鋭さをまし、彼の心と意識につきささってくるようだった。

不意にラズミーヒンはぎくっとした。

何か異様なものが彼らのあいだを通りぬけたようだ......

ある考えが、暗示のように、すべりぬけた。

おそろしい、醜悪なあるもの、そして二人はとっさにそれをさとった......

ラズミーヒンは死人のように真っ青になった。

「やっとわかったか?......」

不意にラスコーリニコフは病的に顔をひきゆがめて言った。

 

 

「どうして?このままではいられないからさ―

それが理由だよ!

もういいかげん、真剣に率直に考えなきゃいかんよ。

いつまでも子供みたいに泣いたり、神さまが許さないなんて

わめいたりしていたって、はじまらんさ。

ええ、ほんとに明日きみが病院に収容されたら、どうなる?

あの女は頭がどうかしてるし、肺病だ

じきに死ぬだろうが、子供たちは?

ポーレチカが身を亡ぼさないと言えるかね?

いったいきみは、母親に袖乞いに出されて

そこらここらにうろうろしている子供たちを見たことがないのかい?

 

ぼくはよく知ってるよ、そういう母親たちが

どこにどんな状態で住んでいるか。

そういう境遇では子供たちが子供でいることはできないんだよ。

わずか七歳で春を売るのも、泥棒をするのもいるよ。

だが、子供たちは―キリストの姿じゃないか。

<<天国はこのような者の国である>>と教えてるじゃないか。

彼は子供たちを敬い愛せよと命じた。

子供たちは未来の人類なんだよ......」

 

 

あるいはまた、貧乏人の意地という特殊な心理が

何よりも強く作用したのかもしれない。

こうした心理のために多くの貧乏人は

今日の慣習では誰もが祝わなければならないことになっている

年に何度かの社会的な行事の際に

<<他人に負けない>>ために、他人に<<とやかく言われない>>ためにという

ただそれだけのために、せいいっぱいの無理をし

虎の子のようにしていた最後の1コペイカまではたいてしまうのである。

 

 

「そうですとも、あんた方はまだ知らないんです

この娘がどんな美しい心をもっているか

この娘がどんな娘か、知らないんです!

この娘がひとのものをとるなんて、この娘が!

この娘はなけなしの服をぬいで売り、自分ははだしで歩いても

あんた方が困っていれば、みんなやってしまう、そういう娘なのです!

この娘は黄色い鑑札も受けました

それはわたしの子供たちが飢えのために死にかけたからです

わたしたちのために自分の身を売ったのです!......」

 

 

「ぼくはしらみをつぶしただけなんだよ、ソーニャ

なんの益もない、いやらしい、害毒を流すしらみを」

 

 

「で、どんなふうに殺したと思う?あんな殺し方ってあるものだろうか?

あのときぼくがでかけて行ったように、あんなふうに殺しに行く者があるだろうか?

どんなふうにぼくが出かけて行ったか、いつかきみに話してあげよう......

果してぼくは婆さんを殺したんだろうか?

ぼくは婆さんじゃなく、自分を殺したんだよ!

あそこで一挙に、自分を殺してしまったんだ、永久に!......

あの婆さんは悪魔が殺したんだ、ぼくじゃない......

もうたくさんだ、たくさんだ、ソーニャ、よそうよ!

ぼくをほっといてくれ!」

 

彼は急にはげしいさびしさにおそわれて、叫んだ。

「ほっといてくれ!」

彼は膝に両肘をついて、掌ではげしく頭をしめつけた。

「ああ、苦しいのねえ!」という痛々しそうな涙声がソーニャの口からもれた。

「さあ、言っておくれ、これからぼくはどうしたらいいんだ!」

彼はとつぜん頭を上げて、絶望のあまり

みにくくゆがんだ顔でソーニャを見ながら、尋ねた。

「どうすればいいって!」と叫ぶと

彼女はいきなり立ち上がった。

いままで涙がいっぱいたまっていた目が、急にきらきら光りだした

 

「お立ちなさい!(彼女は彼の肩に手をかけた。

彼は呆気にとられたように彼女に目を見はりながら、腰を上げた)。

今すぐ外へ行って、十字路に立ち、ひざまずいて

あなたがけがした大地に接吻しなさい

それから世界中の人々に対して、四方に向かっておじぎをして

大声で<<わたしが殺しました!>>というのです。

そしたら神さまがまたあなたに生命を授けてくださるでしょう。

行きますか?行きますか?」

 

 

「ここへ来たんだよ、一人で、ここへ坐って、ぼくと話し合ったんだ」

「妹さんが!」

「そうだよ、妹が」

「きみはいったい何を話したんだ......つまり、そのぼくのことだが?」

「きみはひじょうに善良で、正直で、しごとの好きな男だと、あれに言ったよ。

きみがあれを愛していることは、言わなかった。

そんなことは言わなくとも、あれが知っている」

「あの人が知っているって?」

「きまってるじゃないか!

ぼくがどこへ行こうと、どんなことになろうと―

きみはいつまでもあの二人の守り神であってくれ。

ぼくは、いわば、あの二人をきみに渡すよ、ラズミーヒン。

こんなことを言うのは、きみがどんなに妹を愛しているかよく知ってるし

きみの心の清らかさを信じているからだよ。

妹がきみを愛するにちがいないことも、知ってるよ。

もしかしたら、もう愛してるかもしれない。

だから、どっちがいいと思うか、自分で決めるんだな―

飲んだくれる必要があるかどうか」

 

 

「そしてついに、婦人の心を屈服させる偉大な

しかもぜったいに外れのない手段を発動させました。

この手段はぜったいに誰をも欺いたことがなく

1人の例外もなく、全女性に決定的な作用をするものです。

この手段とは、誰でも知っている―

例のお世辞というやつですよ。

この世の中には正直ほど難しいものはないし

お世辞ほどやさしいものはありません。

もしも正直の中に百分の一でも嘘らしい音符がまざっていたら

たちまち不協和音が生れて、そのあとに来るのは―

スキャンダルです。

またその反対にお世辞はたとい最後の一音符まで

嘘でかたまっていても、耳にこころよく

聞いていて悪い気持がしないものです。

たといごつごつした満足でも、やはり満足にちがいはありませんよ。

そしてどんな無茶なお世辞でも、必ず少なくとも

半分はほんとうらしく思えるものです。

しかもこれがどんな文化人でも、社会のどんな階層でもそうなんですよ。

お世辞にかかっては尼さんだって誘惑されますよ。

だから、普通の人々ならもう言うまでもありません。」

 

 

「どうしてあなたは......どうしてあなたは

こんな雨の中を、お出かけになりますの?」


「なあに、アメリカまで行こうというんですよ

雨なんかおそれていられますか、へ!へ!

さようなら、かわいいソーフィヤ・セミョーノヴナ!

生きてください、いつまでも生きてください

あなたは他人のためになる人です。

それから......ラズミーヒン君に伝えてください。

わたしがよろしく言っていたと。

こんなふうに伝えてください

アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフがよろしく

って、きっとですよ」

 

 

「わたしはね、きみ、外国へ行くんだよ」

「外国へ?」

アメリカだよ」

アメリカ?」

スヴィドリガイロフは拳銃を出して、撃鉄を上げた。

アキレスは目をつり上げた。

「あ、何をする!そんなもの、ここじゃいかん!」

「どうしてここじゃいかんのかね?」

「つまり、ここはそんな場所じゃないからだ」

「いや、きみ、そんなことはどうでもいいんだよ。

いい場所じゃないか。

もしきみが聞かれるようなことがあったら

アメリカへ行くと言ってた、とそう答えなさい」

彼は拳銃を右のこめかみに当てた。

「あ、ここじゃいかん、ここは場所じゃない!」と

アキレスはますます大きく目を見ひらきながら、ふるえ上がった。

スヴィドリガイロフは引鉄を引いた。

 

 

「さようなら、お母さん」

「え!今日すぐ!」と

このまま永久に息子を失ってしまうかのように、彼女は叫んだ。

「こうしていられないのです、もう出かけなければ。

どうしてもすまさなければならない用事があるのです......」

「じゃ、わたしたちはいっしょに行けないの?」

「いけません、どうか、ひざまずいて、ぼくのために祈ってください。

母さんの祈りなら、とどくかもしれません」

「どれ、じゃ十字を切らしておくれ、祝福してあげますよ!

そうそう、これでいいよ。

おや、わたしたちは何をしているんだろう!」

 

そうだ、彼は嬉しかった。

母と二人きりで、ほかに誰もいないのが、たまらなく嬉しかった。

彼はこの恐ろしい何日かの後、心が一時に楽になったような気がした。

彼は母のまえに突っ伏して、母の足に接吻した

そして二人は、抱き合って、泣いた。

彼女ももうおどろかなかったし、うるさく尋ねなかった。

息子の身に何かおそろしいことが起ろうとしていて

いまそのおそろしい瞬間が近づいたことが、彼女にはもうとっくにわかっていた。

 

「ロージャ、わたしのかわいい、かけがえのないロージャ」と

声を上げてすすり泣きながら、彼女は言った。

「おまえはちっちゃいときも、ちょうどこんなだったよ。

こんなふうにわたしのところへ来て、こんなふうに抱きついて

わたしに接吻してくれたっけ。

まだお父さんが生きていて、貧しかったころ

おまえがいてくれるということだけで、わたしたちは慰められたものだった。

そしてお父さんが亡くなってからは―

何度わたしとおまえは、お父さんのお墓のまえで

こんなふうに抱き合って泣いたことか。

わたしがもうかなりまえからすっかり涙っぽくなったのは

母親の心が不幸の来るのを見ぬいていたんだねえ。

わたしはあの晩、おぼえてるかい、ほら

わたしたちがこちらへ着いたあの晩だよ。

はじめておまえに会ったとき、おまえの目を一目見て

すべてを察し胸がどきッとしたんだよ。

今日は、ドアを開けて、おまえを一目見たとき

いよいよ運命のときが来たんだな、と思いましたよ。

ロージャ、ロージャ、おまえはいますぐ行くんじゃないだろうね?」

「ちがいます」

「また来てくれるね?」

「え......来ます」

「ロージャ、怒らないでおくれね、どうせこまごまと聞くなんて

わたしにはできやしないんだから。

できないのは、わかってるけど、一言だけ聞かせておくれね

おまえはどこか遠くへ行くのかえ?」

「ひじょうに遠いところです」

「じゃそちらに何か、勤め口か、いい話でもあるというの?」

「わかりません......ただぼくのために祈ってください......」

 

ラスコーリニコフはドアのほうへ行きかけた。

彼女は息子にすがりついて、必死のまなざしで息子の目を見た。

顔は恐怖でゆがんだ。

「もういいですよ、お母さん」と

ラスコーリニコフは、来る気になったことを深く後悔しながら、言った。

「これっきりじゃないね?ほんとに、まだ、これっきりじゃないんだね?

まだ来てくれるね、明日来てくれるね?」

「来ます、来ますよ、さようなら」

彼はついに振りきって出て行った。

 

 

彼女はいつも彼におずおずと手をさしのべた。

ときには払いのけられるのではないかとおそれるように

ぜんぜん手を出さないことさえあった。

彼はいつもさも嫌そうにその手をとり

いつも怒ったような顔をして彼女を迎え

どうかすると、会ってもはじめから終りまで

かたくなに黙りこんでいることもあった。

彼女はすっかり彼におびえて

深い悲しみにしずみながらもどって行ったことも、何度かあった。

しかしいまは二人の手は解けなかった。

彼はちらと素早く彼女を見ると、何も言わないで、俯いてしまった。

彼らは二人きりだった。

誰も見ている者はなかった。

看守はそのとき向うをむいていた。


どうしてそうなったか、彼は自分でもわからなかったが

不意に何ものかにつかまれて、彼女の足もとへ突きとばされたような気がした。

彼は泣きながら、彼女の膝を抱きしめていた。

最初の瞬間、彼女はびっくりしてしまって、顔が真っ蒼になった。

彼女はぱっと立ち上がって、ぶるぶるふるえながら、彼を見つめた。

だがすぐに、一瞬にして、彼女はすべてをさとった。

彼女の両眼にははかり知れぬ幸福が輝きはじめた。

彼が愛していることを、無限に彼女を愛していることを

そして、ついに、そのときが来たことを、彼女はさとった

もう疑う余地はなかった......


二人は何か言おうと思ったが、何も言えなかった。

涙が目にいっぱいたまっていた。

二人とも蒼ざめて、痩せていた。

だがそのやつれた蒼白い顔には

もう新生活への更生、訪れようとする完全な復活の曙光が輝いていた。

愛が二人をよみがえらせた。

二人の心の中にはお互いに相手をよみがえらせる

生命の限りない泉が秘められていたのだった。


二人はしんぼう強く待つことをきめた。

彼らにはまだ七年の歳月がのこされていた。

それまでにはどれほどの堪えがたい苦しみと

どれほどの限りない幸福があることだろう!

だが、彼はよみがえった。

そして彼はそれを、新たに生れ変った彼の全存在で感じていた。

では彼女は―

彼女はかれの生活をのみ自分の生きる糧としていたのだった!


その夜、監房の戸がもう閉ざされてから

ラスコーリニコフは板床に横になって

彼女のことを考えていた。

その日は、彼の敵だったすべての囚人たちが

もう彼を別な目で見るようになったような気がした。

彼は自分から話しかけてもみたし

彼らの返事にも親しさがあった。

彼はいまそれを思い出した、しかしそうなるのが当然なのだ

いまこそすべてが変るはずではないのか?


彼は彼女のことを考えていた。

彼はたえず彼女を苦しめ、彼女の心をさいなんだことを思い出した。

彼女の蒼ざめた、痩せた顔を思い出した

だがいまはこれらの思い出もほとんど彼を苦しめなかった。

彼は、自分がこれからどのような限りない愛で

彼女のすべての苦しみを償おうとしているか、知っていたのである。

それにこのすべての、過去のすべての苦しみがなんであろう!

いっさいが、彼の罪でさえ、判決と流刑でさえ

いまはこの最初の感激で、外部の不思議なできごとのような気がして

何か他人事のようにさえ思われるのだった。

彼は、しかし、その夜は長くつづけて何かを考え

何かに集中することができなかった。

それに彼は意識の上では何も解決できなかったにちがいない。

彼はただ感じていただけだった。

弁証法の代りに生活が前面へ出てきた。

そして当然意識の中にはぜんぜん別な何ものかが形成されるはずであった。


彼の枕の下に福音書がおいてあった。

彼はそれを無意識に手にとった。

この福音書はソーニャのもので

いつか彼女がラザロの復活を読んでくれたあの本だった。

この監獄へ来た当時、彼は、彼女が宗教で悩まし

福音書の話をもち出して、彼に本を押しつけるものと思っていた。

ところが、おどろいたことに、彼女は一度もそれを口にしないばかりか

福音書をすすめたことさえなかった。

病気になる少しまえに彼のほうから頼んで

彼女が黙ってそれを持って来てくれたのである。

彼はまだそれを開けて見もしなかった。

彼はいまもそれを開きはしなかったが

一つの考えがちらと頭にうかんだ。

<<いまは、彼女の信念がおれの信念でないなんて

そんなことがあり得ようか?

少なくとも彼女の感情、彼女の渇望は......>>


彼女もこの日は一日興奮していた。

そして夜更けにまた風邪をぶりかえしたほどだった。

しかし彼女はあまりに幸福すぎて

自分の幸福が恐いような気がした。

七年、たった七年!

自分たちの幸福のはじめ頃、ときどき

二人はこの七年を七日と思いたいような気持になった!

彼は、新しい生活が無償で得られるものではなく

もっともっと高価なもので、それは今後の大きな献身的行為で

あがなわれなければならぬことに、気がついていないほどだった......


しかしそこにはもう新しいものがたりがはじまっている。

1人の人間がしだいに更生していくものがたり

その人間がしだいに生れ変り

1つの世界から他の世界へしだいに移って行き

これまでまったく知らなかった新しい現実を知るものがたりである。

これは新しい作品のテーマになり得るであろうが―

このものがたりはこれで終った。